ビラ・シリーズ - ビラ・ビアンカ、ビラ・グロリア、ビラ・セレーナ、ビラ・フレスカ、ビラ・モデルナ、ビラ・ローザに住みたい!貸したい、売りたいオーナーを全力でサポートします。
坂倉建築研究所や有名建築家による設計で、米「LIFE紙」や欧州雑誌にも紹介された。時代を先駆ける画期的な試みや斬新なデザインが魅力。 |
デザイナーや建築を志す者の見学が後を絶たない。 |
初期シリーズは東京オリンピックの年に建てられたものにも関わらずわらず、細かなメンテナスがほどこされ、美しい外観を保持している。 |
ビラシリーズ物件限定での空き待ちをする人が必ずい |
ビラ・グロリア 栄光の館 | ||
1972年、神宮前の通りに面してビラ・グロリアは誕生しました。 一階ごとに、テラスと住居を繰り返しています。 |
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建物名称:ビラ・グロリア (栄光の館) 所在地: 東京都渋谷区神宮前2-31-7 施工年月:1972年9月 構造:SRC造 地下1階、地上10階 総戸数30戸 設計:大谷幸夫/大谷研究室 施工:鴻池組 |
ビラ・ローザ | ||
ピンクと水色の外観が印象的。独特な雰囲気があります。 ビラ・ローザの”ローザ”は当時はバルコニーにバラを植栽していたそう。 見た目だけでなく、入居の方たちも、とても個性的なクリエイターが集っています。 |
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建物名称:ビラ・ローザ 所在地: 東京都渋谷区渋谷3-31-17 施工年月:1969年 構造:SRC造 地上10階建 総戸数19戸 施工:安藤建築㈱ |
なぜ、ビラ・シリーズの魅力は衰えない?!
魅力的なビラ・シリーズ、 約40年の時を越えてなぜ、未だに、 輝きを失せずオーラを放っているのでしょうか。 ビラ・シリーズの原点といわれる、ビラ・ビアンカが 誕生した頃の日本の背景は、 一体どういう状況だったのでしょうか。 ■ 戦後日本の住宅市場 ・1945年 戦後の住宅不足 住宅より日々の食料が 優先され、不足数420万戸(当時の住宅戸 数の1/3)にも上る数です。 ・1948年 建設省(現在の国土交通省)の発足 ・1950年 住宅金融公庫法成立 「建築基準法、建築士法」制定 徐々に住宅法制の整備が進められました 朝鮮動乱により好景気に入ります ・1955年~ 高度経済成長期 ・日本住宅公団(現在の都市基盤整備公 団)設立 ・階層別の住宅供給体制 低所得者向け「公営住宅」、 ホワイトカラー中間層向け「公団住宅」、 持家層「公庫住宅」 ※公団住宅は「団地」という新しい集合住宅を生み出す。それまで住宅は、食事も寝る場所もくつろぐ場所も全て同じ「茶の間」で行われていました。しかし、寝食事分離の考え方から「n+LDK」という間取りの考え方を欧米から取り入れ、日本人の住生活に大きな影響を与えていくこととなります。 ・1964年 東京オリンピック開催 ビラシリーズ 第1号 ビラ・ビアンカ誕生 東京オリンピックの真っ最中に誕生した「ビラ・ビアンカ」。オリンピックは、日本の高度成長の象徴でもありました。この当時、日本はオリンピックの開催に向けて新幹線、首都高速道路、オリンピックスタジアム等の社会インフラの整備のみならず、国民生活の高度化に寄与したカラーテレビの普及など、戦後の経済復興において、まさに、国民は日本のこれからの繁栄に熱く希望を抱いていました。 |
■ ビラ・シリーズのデベロッパーである、 興和商事の(故)石田鑑三会長がある取材でコメントを残しています。 欧米の住宅事情を視察しても「参考にしたいと思うものはありませんでした」、「自分たちでまったく新しい住宅を作るしかない。(略)最高のものを作ろう。20年先のことをやろう」と。 歴史にわかるように、その頃日本では、 裕福で成功した欧米の生活を夢にみて、 だれもが憧れの生活、理想像がそこにあると信じ、欧米の生活を真似しようとしている時代でした。 しかし、石田会長は、自分の考えを通し、本当にいいものを自分たちで考えてつくろうとしました。 そして、20年先のことをやろうと。 ビラ・シリーズが完成し、 その20年をはるかに過ぎ、 約40年の時が経とうとした今、 それらの作品は、色あせることなく、 オーラを放っています。 今つくられている、マンションや建物で この先20年後も色褪せない存在感を放つ建物はどれだけあるでしょうか。 |
お客様への満足度調査
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